夢ってなんだろうって話
皆様ご無沙汰してます。
唐突になにかの勧誘臭い話なんですが、皆さんは人生における夢はありますか?
ここ最近、仕事のことで色々思い悩む日々が続いてるので、なんとなく文章力のリハビリがてら乱文を書き散らしてみます。
「夢」ってなんだろう
初めに異変を感じたのは初の部署異動後でした。
勤務初日は忙しくて、ほぼ先輩の話聞いたり手伝いしてたりで終わったんですが、家帰った時に真っ先に思ったのが「こんな感じの仕事が毎日続くのか…」でした。
このままじゃいかんなと思いつつも、日が経つにつれて状況はどんどん悪化し、体調不良にまで発展したので、人生で初めて精神科に駆け込みました。そこで精神科のおば…マダムにブチギレかけた話は割愛します。
このような感じで一時期辞職も考えましたが、親とも相談したりしつつ騙し騙しやっていきました。
二度目の違和感は業務上、「ルールだから」という理由で処理せざるを得ない案件が出てきたことです。
苦しんでいる人の心に寄り添えない経験は「俺何やってんだろう」という思いをより強めました。(この件も色々言いたいことはありますが割愛します。)
こうした諸々がきっかけで、自分は一つの問いにぶつかりました。
「自分の夢とかやりたいことって、一体何なんだろう?」
今までのツケがまわってきた
思えば行き当たりばったりの人生でした。
高校まではなんとなーく周りの話聞いて、行けそうな高校を選んだり、大学こそ一念発起して成し遂げたこともあるけれども、就職もなんとなくやりたそうなものを受けたりして。
先のことを考えてないから、いずれこうなるのは火を見るよりも明らかでした。
私が仕事に求めることは「誰かを助けること」より率直に言えば、「目の前の誰かの喜ぶ顔を見ること」なので、最初こそ望みの叶う部署でしたが、異動になればどうなるか。これはもう上記の通りです。
だから結局は自分のせいなんですよね。
一度、「これはもうダメだな」って思ったことがあって、ある面接の時に「どんなことを心がけて仕事していますか?」って逆質問された際、全くまともな回答が出来なかったんですよ。
自分でもびっくりしました。こんな辿々しい回答があっていいのかってくらい、しどろもどろ。思ってないことを咄嗟に言えない性分とはいえ、ここまでか、って思いました。
まあ、当たり前ですよね。だって何も考えてないから。日々自分を誤魔化すので精一杯だから。
その場は他の方のフォローなどもあって何とかなりましたが、「自分はここにいるべきじゃないな」ってのはその時強く感じました。
こうした経緯から、最近は本当に色んな場面で「夢」「目標」「やりがい」って単語がひっかかるようになってきました。
面接中「昔からこの資格を取るのが夢だったけど、事情があって諦めていた。でも諦めきれなくて、今になってやっと叶えられた。」って話を聞いた際は、思わず泣きそうになりました。凄いな、って気持ち半分、それに比べて俺何やってんだろう、って情けなさ半分で。面接官失格ですね。
夢とか目標なんて無くても、いずれ何とかなる気がしてました。
仕事に就いてさえしまえば、そんなものなくてもいずれ気にならなくなる、とでも思っていたのかもしれません。
自分が、それがなきゃやっていけない人間ってことなんか、自分が一番わかっているくせに。
もう一度ゼロからのスタート
こうなったらできることはもう一つだけです。そう、「ゼロから始める転職生活」。
はい、盛大に滑り散らしたところで説明しますが、ここまで働いてわかったのは、
「現場の仕事が一番であること」
「部署移動がなるべく避けられること(専門性を身に付けられること)」
等、いくつかあります。
それを元に、やりたいことを再度ピックアップしていこう!って、大学4年生の時にやるような事を再度やっていこうというキャンペーンです。つまるところただの転職活動ですね。
妥協したり、現状を受け入れられる性格ならいいんですが、残念ながらそうもいかないですし、なにより、せっかくの命なら、本気でやりたいこと、ワクワクすることを追いかけて、満足したまま死にたいと思いますので。
…ある意味、これも夢と言えなくもないのかも?
なので今は高校生向けの「職業・進路案内 夢が見つかる533職業」みたいな本を買って読んでます。何かアドバイスあればご教示ください。
おわりに
結局夢が何かってことに一切触れてない気がしますが、一言で言えば「人生で成し遂げたいこと」「譲れないこと」なのかなと思います。
何を当たり前な、と言われそうですが、これは何も職業に限った話ではないです。
だから、たとえば
「結婚して家庭を持ちたい」
これも立派な夢です。
「世界中の美味しい料理を食べたい」
なんかもそうですね。
これは僕もちょっとやってみたい。
今のご時世、「夢=職業」って固定観念を持ってしまうことも多いですし、この内容だとまさにその前提で進んでしまってる感じもあるので、ちょっと書いておこうと思いました。
そこをふまえてまとめると、
「僕は他のことにはあまり拘りがないが、唯一譲れないのが仕事のやりがいだったから転職したい」
というのが今回の内容になります。
なので「みんなもっとやりがい持って仕事しようぜ!」「夢持とうぜ!」とかそういう説教がましい話をする気は毛頭ないです。
僕が好きなゲームの女神異聞録ペルソナで、「何故の生か」って問いに対して、「その答えを探すため」ってセリフがあるんですよね。
それにすごい感銘を受けてて、かっこいいな、って思ってたんですけど、その答えを探すのってこんなに辛いんだなぁ、なんて考えてもみませんでした。
でも、もしそれが本当に見つかるなら。こんな風に悩んだり苦しんだりした時間にも、少しくらい意味があったのかなって思えるのかもしれないですね。
今回は以上です。
ご静聴ありがとうございました。
バイクっていいよね、ってお話
みなさんお久しぶりです。
社会人ってやつになって半年が経ちました。
半年間の間でわかったのは、仕事を初めてしまうと呆気なく1週間が終わってしまうこと。「疲れたな~」なんて言いながら土日だらだら過ごせばそれだけで1週間が終わります。悲しい。
何か…楽しみがあれば…
そう、ふら~っとどこかへ出かけて、旅を満喫できるようになる乗り物があれば…!
というわけでバイクを買いました!
昔からバイクが欲しかったので、念願叶ったりです。7月に頼んだのに9月中旬の納車になったのは閉口しましたが。
バイクの3つの魅力
てなわけでバイクの良さでもプレゼンしようかと。
・行動範囲が広がる
まずはコレですよね。僕は元々徒歩でしか移動できなかったのですが、バイク買ったことにより土日に公共交通機関で行きにくい場所に出かけるという選択肢が広がりました。
友達に呼ばれ、土日に美瑛への弾丸旅行をしたこともあります。通常3時間半が何故か6時間かかったのは良い思い出。
青い池です。曇っててうっすら緑がかってたというひどいオチ。
…え?車でいいだろ?そう来ると思いましたよ。では次!
・「走ってる」って実感が湧く
車の免許も持ってるんですが、走ってて気持ちいいのはやっぱりこっちなんですよね。
身一つで走るわけですから、田舎道の穏やかな空気とか、海沿いの潮風とか、そういったものを身体全体で感じられるんですよ。
そういったものが、なんだか堪らないくらい「旅をしてるんだ」「走ってるんだ」って実感につながって、とても楽しいんです。
ある村の中でとった写真。
こんな綺麗な風景見ながら走るって、考えただけでワクワクしてきそうでしょ。
・かっこいい!!!
つまるところコレです。普通に考えたら車のが便利だし安全だし断然いいわけです。それでもバイクで走るってのはなかなかの物好きだと思います。
ただね、カッコいいんですよホント。キャンプツーリングとか憧れますし、「日本一周中」みたいなのをつけて走ってるバイクとかもたまに見ます。
天候に左右される乗り物だからこそ、その大変さは並大抵のものじゃないです。だからこそカッコいいし憧れるんです。
CMでもやってますよね。「車ほど便利ではないが~」みたいな赤男爵のやつ。
不便だけど、危ないけど、これがあればどこへでも行けそうな気がする。便利さなんかをハカリにかけても、なお乗りたいと思わせる。そういった魅力ってのがバイクにはあると思います。
美瑛向かう途中で見た三段滝。
足場が危ない。夜行くとコケかねない。いやいや、マジで。
また、バイカー同士の挨拶、所謂「ヤエー」ってやつ。すれ違い様に左手挙げて挨拶するやつですね。あれ、初めて体験したんですが凄くいい気分になるんですよね。
なんかこう、ライダー同士通じるものがあるっていうか、「おっ、あんたもライダーか。お互いガンバろう!」みたいなものを感じるんですよ。
知らない人同士でも気軽に挨拶できる。これって、すごい素敵なことじゃないですか?
神威岬。それはそれは綺麗な海が見える絶景スポット。風強すぎて落ちそうになった。
乗り初めて2ヶ月かな?たったそれくらいだけど、もう思いっきり魅力に取りつかれております。
ただ段々寒くなってきて、そろそろ乗るのも厳しくなってくるのかなーとも思ってるんですがね…
どうでしょうか、みなさん。バイクに少しでも興味を持っていただけたでしょうか?
特段詳しかったりするわけではないのでお話しできることもそんなないんですが、是非一度この楽しさは味わってもらいたいなぁ。
もしこれ読んで、バイク乗ってみるぜ!って方がいれば、泣いて喜びます。ぜひ一緒にツーリング行きましょう!
ちなみに私は納車後半日で立ちゴケしてハンドルが削れ、その後1週間以内に強風により駐車場で3回倒れ、ウインカーとスピードメーター、ハンドルがオシャカになりました。ついてないにも程がある。
「ヒーロー」のお話
みなさんこんにちは。社会人生活も二週目に入りましたが、相変わらずのてんやわんやぶりで色々忙しいです。
さて突然ですが、「ヒーロー」ってどういう人だと思いますか?
人を救う人でしょうか。それとも誰かのために自分を犠牲に出来る人でしょうか。
色々定義はあるでしょうが、今回はそんなヒーローについて話します。
「ヒーロー」ってどうやったらなれる?
私事ではありますが、僕はずっとヒーローに憧れていました。人を助けることができる、そんな人間に自分もなりたいと強く願っていました。その為の苦労なら惜しまずするつもりでした。
そんな時聞いたのがこの台詞です。
英雄ってのはさ、英雄になろうとした瞬間に失格なのよ。お前、いきなりアウトってわけ。
「仮面ライダー龍騎」に出てくる、北岡秀一=仮面ライダーゾルダの台詞です。「英雄になりたい(人から好かれたい)」との願いからライダーバトルに臨む、東条悟=仮面ライダータイガに向けての言葉でした。
二年前に龍騎を観たときはこの言葉の意味がわかりませんでした。が、劇場版仮面ライダー剣、そしてこの歌詞を見て、やっとその意味に気付きました。
ヒーローになんて なりたくない
(中略)
そんなものがいらない 世界へと 変える為に
要するに、「ヒーロー」ってものは困った人がいないと現れない存在なんですよね。だから、そうなろうとすること自体、「苦しむ人」の存在を願うことに繋がるわけです。
それはヒーローとは程遠い思考であり、「ヒーローになりたい」と願う人間は永遠にヒーローにはなれないんです。
…じゃあ、どうすればヒーローってものになれるんでしょうか?
ヒーローの条件
ではヒーローの条件は何か。僕が思うにそれは、「ヒーローになりたくない」と願うこと、あるいは何も考えないことではないでしょうか。
そもそもヒーローって何かと考えてみると、「困っている人、苦しんでいる人を助ける、あるいは無くす人」なわけです。
であれば、そういった人がいない状態が、ヒーローにとっての目標なんですよね。
そう考えると、何も考えずただ目の前の誰かを助けられる人こそが、自分の名誉を誇示したり、自己顕示欲を満たしたり、そういったこととは無縁の人こそが、ヒーローになれるのではないでしょうか。
ただ目の前の人を救う。ただ災害や犯罪に対処する。それは決してヒーローになりたいからではなく、人として当たり前のことだから。そう考えられる人が、本当のヒーローになれるのでしょう。
少し龍騎のネタバレになりますが、その後の東条悟の話をします。
彼は前述の言葉を聞き、どうすれば英雄になれるか悩むわけです。悩み続けてふと街の交差点に着いたとき、彼が目にしたのは親子連れに突っ込むトラックの姿でした。
とっさに彼らを突き飛ばし、トラックに轢かれた東条。翌日の新聞に書かれていたのは、
「親子を救った英雄」
という見出しでした。
…英雄になりたいと望んでいた時には命を奪うことしか出来ず、逆に何も考えないときに命を救うことが出来た、というのは皮肉という他ありませんが。きっとヒーローというものには、常にそういった皮肉が付きまとうものなのでしょう。
それでも僕は
でも。それでも僕はヒーローになりたいです。誰かを助ける事が出来る、誰かの為に命を張ることが出来る。そんなヒーローに、僕はずっと憧れていたんです。
正直言うと、自分みたいな人間でも誰かの役に立てると、自分にも出来ることがあると。そう思いたかったんです。それがヒーローから程遠い思考だとしても。
きっと僕はヒーローにはなれないでしょう。だってヒーローが願ってはいけない、自分本意の考え方をしているから。
もしそうでも、たとえヒーローにはなれなくても。僕は困った人を見ているのがとても嫌だと思います。泣いている人を見るのが辛いと感じます。その人を助けるためなら、なんだってしたいです。
であれば。ヒーローなんて肩書きが無くても、僕は僕の思うまま、誰かを助けるために生きていこうと思います。
それが例え、自己顕示欲や名誉欲を満たすためのものだとしても。一人でも多くの人を助けたいと願う気持ちは、絶対に嘘ではないのですから。
とまあ、いい感じに締めてみました。
願わくば、私が誰かにとってのヒーローになる、そんな事態が永遠に起こりませんように。
(今回何回ヒーローって言ったのかな…)
「甘い」≠「優しい」というお話。
早いものでもう4月です。新学年やら新生活やら忙しい時期ですね。かくいう私も社会人になってしまいました。
この段階で何書くか決めてないんですが、何か書きたいからまず書いてみます。
とはいえ、何を書けば良いのか。なんか色々言いたいことだけはたくさんあります。
じゃあ、今回は「優しさ」と「甘さ」についてにしましょう。
「優しい」ということ
僕は「優しい」人間だと言われることが多いです。困った人はほっとけないし、怒るのも苦手ですし。曲がったことも嫌いです。恐らく周りから見れば優しいんでしょう。僕も正直そう思います。
ただ、「優しさ」も過ぎれば「甘さ」につながりますよね。どこからが「優しさ」で、どこからが「甘さ」なんでしょうか。なんとなく境界線を考えてみました。
「優しさ」と「甘さ」の境界線
では優しさと甘さの境界線はどこにあるのか。僕が思うに、それは「自己保身」の有無かと思うんです。
例えば誰かを怒るべき時に怒れないのは、決して「優しさ」などではないのです。それは、「相手に嫌われるのが怖い」「関係を壊したくない」という「自己保身」、つまり「甘さ」なんです。
何かをされた時、何かが起きた時、自分が心から大したことないと感じ、許すのならそれは「優しさ」でしょう。
ただもし、ほんの少しでも自己保身の気持ちがあるなら、向き合うのが怖いと無理矢理納得しようとするなら、それはただ「甘い」だけなのかな、と思います。
結局何が言いたいの?
こうして考えると、僕は今まで見事に「甘い」だけの人間でした。怒るべき時に怒れない。諫めるべき時に何も言えない。人と真っ向から向かい合うのが怖い。そういう人間でした。
ただ、それはやっぱりいけないことだと思うんです。相手のためにも、自分のためにも。
相手のしたこと、しようとすることに何も言わなければ相手は自分が間違ってるとか、おかしいとか思わないわけです。それではきっと他の人には通用しません。下手をすれば、後でもっと酷い目に遭うかもしれません。
そして、相手と対立しないってことは、その時は楽です。自分が我慢するだけで済みますから。ただ、我慢が積み重なった挙げ句自分自身が苦しむことになったり、その時対立しなかった事で相手がより苦しむ結果になってしまい、自責の念に駆られたり、ってことも充分考えられます。
だから、自分の譲れないものがあるなら、許せないことがあるなら、止めるべきことがあるなら。なおのこと逃げてはいけないのかな、と思います。
おわりに
僕の好きな小説に、こんな言葉があります。
でたらめでもいいから、自分の考えを信じて対決していけば、そうすりゃ、世界が変わる
もちろん、怖いです。人に「それは違うよ」って言うのは。自分が正しいと信じて何かを言うのは。嫌われたり、間違っていたりするかもしれません。
でも、何かを変えたいと思うのなら。このままではいけないと思うのなら。きっと、勇気を奮い立たせ、自分を信じて立ち向かうしかないのでしょう。そうすれば、世界までは変えられなくても、目の前の現実くらいは変えられるんではないでしょうか。
例えそれが間違っていても、考えるきっかけにはなります。であれば、立ち向かおうとしたことは決して無駄ではないでしょう。
熱い自分語りになってしまった気もしますが、こんなところですかね。今回はこれから自分がこうなりたい、という自戒の意味も込めた記事になりました。
ちなみに社会人になるという現実とは未だに向き合えていません。現場からは以上です。
「出会いは人生の宝探し」
先日、最後のゼミがあり、終了後に殆どの4年生と何人かの3年生で飲みに行って来ました。
今だから話せる就活中の話をしたり、今までのゼミの事を話したりと、楽しいひとときを過ごせました。飲み会は苦手ですが、行ってよかったと思います。
色々ありましたが、このゼミを選んでよかったな、と思える最後でした。
しかし第一印象は…
正直言って、最初は同期のゼミ生が苦手でした。なんと言えばいいのか、びみょーに「合わない」気がしてたんですよね。
その勘はなんとなーく当たってて、かたや飲み好きの人達、かたや飲み会大嫌い芸人と、見事に別れていたわけです。
他にも価値観が合わなかったり、いじられキャラとは言えディベートの役目を無理に押し付けられたりして
「あ、やっぱり合わないわ」
って不満が溜まっていったんですよね。
「この人達は自分の事をわかってくれないだろう」
とも思ってました。
そんなわけで、2年あるうちの1年半近くは微妙な距離を取りながら来たわけです。
変わるきっかけ
で、昨年の下半期辺りに自分の事を見直す機会があり、ゼミの事についても考えてみたんですよね。
そこで、気付いたんですよ。
自分から歩み寄ろうともしないのに「合わない」って変だって。自分から自分の事明かしてないのに、「わかってくれない」って言うのはおかしいって。
今までの友達の事を考えても、自分が合わせてる部分って少なからずあるんですよね。
全部自分を押し通して仲良くなれることってなかなかないと思います。多少合わなくても、仲良くなりたいから合わせるんです。
でも今回はそれが全くなかった。仲良くなろうとすらせず、さっさと見切りを付けていたんです。
実際に関わってみてどうしても合わないなら、それはそれでいいんです。
ただ僕の場合は違ったんです。関わる前に心を閉ざしてしまってたんですよ。
ちょっと違うから。
ちょっと合わないから。
深いところまで知る前に関わるのをやめていたんです。
そう考えたら恥ずかしくなりました。
向こうは飲みに誘ってくれたり、僕と話したいって思ってくれていたのに、僕はそれを無下にし続けたわけですから。
今更仲良くなれるかわからないけど、僕はそれから少しずつ、自分の事を話すようになりました。
で、冒頭の飲み会の時、初めて自分の深いところまで話したんです。
そしたら、みんな親身になって聞いてくれて。
「ここまで黙ってないで話してほしかった」
って言われて。わざわざ個人的に連絡してきてくれた子もいて。
なんて勿体無いことしてたんだろうって。普段だけ見てわかってなかったのは自分の方だったって、思ったんです。
「出会いは人生の宝探し」
第一印象で「この人とは合わないな」って感覚を感じたことは誰しもあると思います。
でも、そこで関わるのをやめてしまうのは勿体無い事だと思うんですよね。だってまだ全然相手のことを知らないんですから。
普段みんなの前で出てる部分しか見てないだけで、考えてることとか、価値観とか、わからない部分はまだまだあるわけですからね。
中学の先生が
「出会いは人生の宝探し」
とおっしゃっていたことを思い出します。
元々の意味は
「一つ一つの出会いは奇跡的な物=宝物だから、人生で多くの宝を見つけて欲しい」
的な物だったと記憶しています。ただ、今回の件で僕はこう思いました。
一見ゴミにまみれて値打ちがないものに見えても、よくよく見たら古代の財宝かもしれない。逆に綺麗なものでも、贋作で値打ちがないものかもしれない。
大切なのは、自分にとって本当に価値のある、唯一無二の宝を捨ててしまわぬよう、一つ一つの出会い=宝物をしっかり時間をかけて見極めることなんじゃないか、と。
ただの決めつけで大切なものを失うことのないよう、気を付けようと思った1月の終わりでした。
ちなみに最近友達に転居を手伝ってもらったのですが、その際「ゴミが多すぎる」と言われたのは、そこから本当に大切なものを見極めようとしていたからです。
…ええ、本当ですとも。ええ。
人に寄り添う励まし方
段々寒くなってきましたか、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
私は献血前に数分外に出ただけで手が尋常でなく冷え、献血中左腕をカイロまみれにされたりしましたが元気です。
今回は、「励ましの言葉」について少し話します。
「周りも同じ」って言われても…
「つらいのはお前だけじゃない」「他のやつも同じだ」「周りにはもっと辛いやつがいるんだ」ってよく聞きますよね。
僕ははっきり言って、これらの言葉が虫酸が走るほど嫌いです。でも、なぜかって事はずっとわからずに来ました。
そんなときに見つけた言葉がコレです。
よく「みんなつらいんだよ」と言われるが…それが僕がつらいのと何の関係があるんだ by 福満しげゆき
— Copy writing (@Copy__writing) 2016年11月17日
この言葉を見て、長らく感じてたモヤモヤがすっと引いていくのを感じました。
励まされる側からの思い
つまるところ、それを言われたところで何も変わらないんですよね。
自分が辛い思いしてるところに「周りも辛いんだ」なんて言われて、「あ、じゃあ頑張れるわ」ってなるか、って話なんですよ。少なくとも僕はなれません。
自分より下を見たところで、今の自分の状況が変わるわけではないんです。
僕は「今」「音をあげるくらい」辛いんですよ。他人の辛さと比較している余裕なんてないんです。そこでそんな事言われても立ち上がる気力なんて沸きません。精々立つのは腹くらいです。
それに、「同じ事をやっている=同じ辛さ」ではないと思うんです。人はそれぞれ体格差も内面の差もあります。同じ事やったって、同じ目に遭ったって辛さも感じ方も違うのは当たり前でしょう。
それをこういった言葉で一纏めにしてしまうのは、ちょっと違うのかなーと思います。
しかし励ます側からみると…
ただ…自分が励ます側に回ったとき、やっぱり思うことはあるんですよね。「周りはもっと~~なのに」「俺だって~~なのに」って。
自分が味わったから、周りの状況を目の当たりにしているから、言いたくなるんだと思います。「なんでこんな事で」と。「俺だって辛いの我慢してるのに、こいつは簡単に弱音吐いて」と。
でも、そういった声をかけられた側は余計つらいと思います。周りと比較しての言葉だから。辛いのをわかってくれていないように感じるから。自分の事だけを見てくれての発言ではないから。
そういった時にそれらをぐっと飲み込んで、例えば運動部の練習中なら「もうちょっとだ、頑張ろう!」、普段のことなら「わかるよ、その気持ち」って励ましたり、共感してあげられたら、言われた側はどれだけ救われることでしょう。
もちろん、言葉をかけてくれるってことは凄くありがたいことです。励ましてくれるって、とても嬉しいことです。僕も誰かの言葉や励ましのお陰で頑張れたこと、たくさんあります。
ただせっかくなら、自分のような思いをする人が出ないように、そういった言葉を使わず、一人一人の辛さをわかった上で言葉をかけられるようになりたいと思う今日この頃でした。
格好よくまとめましたが、私は過去に「そのうちいいことあるよ」と無責任全開な励ましを多用していた時期があります。非常に情けないことです。…この記事、真っ先にその時の自分に見せたいなぁ…
若者よ、ノートを取ろう
のっけから説教臭くなりました。
就活やら色々あり、久方ぶりの記事です。実に5ヶ月近く経ってますね。
って書いてから下書きぶちこんで忘れてたので、9ヶ月は経ちましたね。今日は講義と就活がびみょーに関係する、ってお話を軽くさせてください。
正直、写真でもいいよね。
タイトルこそあれですが、僕は別に講義のスライドや板書の写真を撮ることには反対しません。便利な道具は使ってこそでしょうし、本人が覚えられればそれで良いと思います。(ちなみに僕は講義中のカメラの音は嫌いです)
ではなぜ、こんな説教じみた話になるんでしょうか。それは、将来大学生の大半が直面する「シューカツ」に関わるからです。
じゃあ、何故ノートが必要か
就活してて思ったのは「文明の利器が使える場面がほぼ無い」ことです。僕はノート取る派なので問題ありませんでしたが、スマホ派は少し厳しい戦いかもしれません。
説明会ではみんな必死の形相でメモとってます。自分もそうです。
それは何故か。スマホは「誰も使わない」し「失礼にあたる(かもしれない)」から、失敗が許されない就活ではリスクが高いんです。だからみんな、無難にメモで妥協するんです。
しかも、スライド無しで口頭でのみ説明するような場所さえあります。そんな時にいきなりメモを取ろうにも、わかりやすく纏めるのはなかなか難しいでしょう。(ボイスレコーダー仕込むなら別ですが)
そんな時のために、講義でノート取りながら自分でわかりやすく纏める練習をしておくのは効果的です。板書ベタ写しでなく、見やすさを考えながら書いたり、講師の大事そうな口頭説明も拾えるとなおベターでしょう。
「先の事なんて知るかよめんどくせえ」って人もいるでしょうが、就活のみならず、社会人となってからも役立つスキルだと思いますから、きっと無駄にはなりません。お勧めします。なんか頑張ってる感じも出ますし。
合わせることも必要
先にも述べたように、僕は写真でもなんでも撮ればいいと思ってますが、就活においてそれを貫くのはあまりに無謀です。以前「私服OK」の合同説明会に私服で行ったりしたこともありますが、それなりに後悔しました。
かといってシステム自体が変わるのを待つのも時間がかかるので、不本意ではあっても適応するしかありません。
自分のスタンス貫いた結果第一志望落ちた、なんて悲しすぎるじゃありませんか…。
「慣習」とか下らないシステムのせいで非効率的な事、一杯ありますよね。自分自身、納得は出来ません。こういうところ、なんとかならないかなぁ。…慣習についてもう少し書きたいけど、今回はこれで。
ちなみに私は履歴書の手書きシステムを早急になんとかしてほしいです。1文字のミスで地球の資源無駄にするのはもうイヤです。名前だけ自筆にしてよ。マジで。