言葉遣いは容姿に出る、というお話。
(図:有名なコトダマ使い)
言葉の持つ力って、案外馬鹿にできないものだと思っております。
「言霊」なんて言葉があることからも、言葉の力ってものは昔から認識されていたんだと推測できます。
主に言葉の力は他者とのコミュニケーションにおいて意識されやすいですよね。しかし今回は、「言葉は自分自身にも影響を与えてるのではないか」という話をしようと思います。
以前大学内で、男子二人を引き連れた女子を見たことがありました。
すれ違う際に会話が聞こえたのですが、女子が「あの授業、ホンットありえないぐらいクソでよー」のような、男言葉+汚い言葉遣いだったのでとても驚きました。
…容姿にかかわる発言は極力したくないですが、言葉遣いに相応の容姿だったと記憶してます。あ、ちなみに僕も人のこと言える容姿ではないです。
この一件で感じたのは、「言葉は心の鏡」だという事です。 現に、話し方や使う言葉でその人の知性がわかる、って事もありますよね。人に何かを伝えるとき「どう伝えたいか」っていう心の動きは、言葉に如実に出るわけです。
少なくともこの数秒で、彼女がおしとやかとは程遠い人種であることははっきりわかりました。
ここまではよく聞く話です。が、もう一歩踏み込んで先の容姿の話と関連付けると、「言葉遣いは容姿に表れる」のだと思います。
つまり、「心は言葉を通して容姿に表れる」という事になります。
実際、僕が今まで出会った人を見ても、容姿からのイメージと実際の言葉遣いは大体一致していました。みなさんもそうではないでしょうか。
自分の行動や発言は、他の人が認識しなくても自分が一番分かっているわけです。つまり、外に向けて放った言葉は、自分に言い聞かせているのも同じ、ということですね。
だから、使う言葉は徐々に容姿に反映されるんじゃないか、と思います。攻撃的な言葉を多用すれば容姿も威圧的になりますし、逆に優しくすれば温厚そうな容姿になる、という具合に。
そういう意味で、言葉は自分にも影響を与えるものだと思います。
余談ですが、この一件以来、僕は汚い言葉遣いをしないよう意識してきました。特に「死ね」「殺す」は意識して使わないようにしてます。容姿云々よりは、そういった言葉遣いが他所からどう見えるのか、というのを目の当たりにして怖くなったからです。
言葉遣いのせいで初対面から幻滅されるのって、悲しすぎるじゃないですか。せめて最初くらいは普通の人だと思ってもらいたいです。
ちなみに、「なんか」や「~らしい」等、伝聞を多用したり、明言を避ける人は責任を被るのが嫌な人らしいですよ。僕に合致してて、すごく驚きました。
普段あまり意識しない「言葉」ですが、たまに気にかけてみると自分を見直すきっかけになるんじゃないでしょうか。
ゲーム紹介・デモンズソウル
何故の生か
投稿二回目にして早くも厄介な話題です。死亡フラグが立った気もするし、打ち切りエンド臭すら漂います。でも書いていきます。
先日後輩と話をして、「生きる意味は何か」ってのが話題になりました。
この話題になると、まず僕が言いたくなるのが「その答えを探すため」です。「女神異聞録ペルソナ」というゲームで、主人公が(選択肢次第で)言う台詞です。
初めてこの台詞を見た時、多分小学生だったんですが、とても感銘を受けました。以来大好きな台詞の一つです。リメイク版?知らん。神話覚醒を消した罪は重い。
ただこれ、考え方によってはただ逃げてるだけとも取れるんですよ。だって結局の所答えになってないわけですから。とはいえ、生きる意味なんて若いうちにわかる人なんかいません。居たら仏陀の生まれ変わりかチートです。
生きる意味って、きっと人生が終わる直前に分かるものなのだと思います。だからこその「その答えを探すため」なのでしょう。しかし、それだけなのでしょうか?
もう一つ意味があるとすれば、 僕は「自分にしか出来ないことをすること」だと思います。具体的には、他人の人生に影響を与えることです。
人生って、人と人とが関わって出来ています。自分の発言や行動が誰かに影響を与えて、それがまた別の誰かに影響を与えて…と、凄く複雑なものです。
つまり、僕らは自分の人生の主人公であると同時に、他人の人生の脇役でもあるんです。ゲームならサガフロンティア2が近い感じかな?
「自分が居なくても、誰か別の人が居ればいいだろう」と思ってる人がいるなら、それはちg「それは違うよ!」
誰だ今の。ええと、自分以外じゃ代わりにならない場合もあります。
実際にあった話です。
ある試験を受けた人(Aさん)がいました。大学内の会場に向かう途中で、誰か(Bさんとします)に声をかけられます。
どうやらBさんも試験を受けに来たようですが、大学内がとても広く、会場がわからない様子。しかしBさんが受けるのは別の試験だったので、Aさんに会場はわかりません。
わからないと正直に告げると、Bさんはとぼとぼ去っていきます。
別れてすぐにAさんは試験会場に着きました。ところが何の偶然か、Aさんの試験の会場はBさんの試験会場でもあったのです。
ふと振り返ると、Bさんは会場からどんどん遠ざかっていきます…どちらも試験開始まで、そう時間はありません…
もしAさんが追いかけて声をかけなければ、Bさんは遅刻するか、最悪受験すらできないでしょう。
自分しか通らない道、やらないこと、行かない場所、沢山あります。そこで誰かが困っていたり、悩んでいる時、動き出せるのは他でもない自分だけなんです。
説教臭くなったけれど、これがもう一つの生きる意味なのかなって思います。いや、もしかしたらそんなもの無いのかも知れません。でも、意味を考えずに生きるには人生は長すぎます。
だとすれば、それを考える事にも意味はあるのかな、って思います。なんか少し清々しい気分なので、この後すぐ死なないかすごく心配です。
意味意味言い過ぎて意味がゲシュタルト崩壊してきたので、今回はこの辺で。意味の意味ってどういう意味だっけ…
え、Aさんはどうしたか?…それはご想像にお任せします。
伝え方の大事さ
Facebookで「正しさ」を盾に、周囲への批判を辛辣に述べる投稿が流れてきた。友達が「いいね!」したかららしい。言いたい事はわかる。正しいとも思う。でも、何かよくない。さっぱりよくない。何故かわからないが、朝から気分が落ち込んだ。
なんでこんな気分になるのかずっと考えてたら、「正しい事ならどんな伝え方をしてもいいのか」って事が引っかかってるんだと気づいた。
そこでさらに考えてたら、こういう考え方が湧いてきた。
「会話のキャッチボール」っていうのは皆知ってると思う。ここに、概念を二つ加える。まず一つ、「伝える意思」。批判とか、発言のメッセージ性やら強制力が強い程ボールは硬いとする。二つ目が「伝え方」。これはボールの速さ。伝え方が辛辣だとか、押し付けるようなものはそのまま速いボールを表す。これを前提としたい。
まず、会話って何か。相手に自分の考え=ボールを受け取ってもらって、相手の考えを投げ返してもらうこと。お互いが相手の考えを受け取る、理解するのがまず会話の目的になる。
ここで、冒頭の「周囲への批判」ってのは硬いボールになる。硬いってのは即ち危ないし怖い。そもそも受け取るのも痛い。だから「伝え方」=投げ方が重要になってくる。これをすごい速さで投げてしまうと、当然相手は受け取れない。下手したら身体にぶつかる。そうしたら、キレてこっちにもぶつけようとしたり、キャッチボールをやめてしまうかもしれない。柔らかいボール(普段の会話等)ならまだ冗談で済むけど、こっちはそうはいかない。いくら正しい事だったり、わかってもらいたい事でも、相手がそれを受け取ってくれなきゃ何の意味もない。
正しいからこうしろだの、君はこうするべきだのって、実は聞く側はすごく耳が痛かったりする。間違ってるって言われるのも同じだからね。優しく言われてもそうなのに、きつく言われたらやっぱり反発したくなる。
だからこそ、自分が正しいと思う事だったり、誰かに伝えたい事こそ相手が受け取りやすいようにしなきゃならないのかな、って強く感じた。批判は必要かもしれないけど、伝え方一つで受け取り方も、その後の展開も大きく変わっちゃうから尚更。
ちなみに、やっぱり同じ様に気になってる人がいたみたいで、本人に直接返信していた。ただそれについての本人のコメントが「周囲を焚きつけるためわざとこう書いたんだよ⭐」だったので、その是非について頭を悩ます事になったのはまた別のお話。
というわけで記念すべき初投稿でした。ブログ始めたのもこういう真面目な事を長文で書く場が欲しかったからです。ただ、これ以降趣味の話ばかりになったりする可能性は十分あります。
それでもよければお付き合いいただけると幸いです。よろしくお願いします。