「甘い」≠「優しい」というお話。
早いものでもう4月です。新学年やら新生活やら忙しい時期ですね。かくいう私も社会人になってしまいました。
この段階で何書くか決めてないんですが、何か書きたいからまず書いてみます。
とはいえ、何を書けば良いのか。なんか色々言いたいことだけはたくさんあります。
じゃあ、今回は「優しさ」と「甘さ」についてにしましょう。
「優しい」ということ
僕は「優しい」人間だと言われることが多いです。困った人はほっとけないし、怒るのも苦手ですし。曲がったことも嫌いです。恐らく周りから見れば優しいんでしょう。僕も正直そう思います。
ただ、「優しさ」も過ぎれば「甘さ」につながりますよね。どこからが「優しさ」で、どこからが「甘さ」なんでしょうか。なんとなく境界線を考えてみました。
「優しさ」と「甘さ」の境界線
では優しさと甘さの境界線はどこにあるのか。僕が思うに、それは「自己保身」の有無かと思うんです。
例えば誰かを怒るべき時に怒れないのは、決して「優しさ」などではないのです。それは、「相手に嫌われるのが怖い」「関係を壊したくない」という「自己保身」、つまり「甘さ」なんです。
何かをされた時、何かが起きた時、自分が心から大したことないと感じ、許すのならそれは「優しさ」でしょう。
ただもし、ほんの少しでも自己保身の気持ちがあるなら、向き合うのが怖いと無理矢理納得しようとするなら、それはただ「甘い」だけなのかな、と思います。
結局何が言いたいの?
こうして考えると、僕は今まで見事に「甘い」だけの人間でした。怒るべき時に怒れない。諫めるべき時に何も言えない。人と真っ向から向かい合うのが怖い。そういう人間でした。
ただ、それはやっぱりいけないことだと思うんです。相手のためにも、自分のためにも。
相手のしたこと、しようとすることに何も言わなければ相手は自分が間違ってるとか、おかしいとか思わないわけです。それではきっと他の人には通用しません。下手をすれば、後でもっと酷い目に遭うかもしれません。
そして、相手と対立しないってことは、その時は楽です。自分が我慢するだけで済みますから。ただ、我慢が積み重なった挙げ句自分自身が苦しむことになったり、その時対立しなかった事で相手がより苦しむ結果になってしまい、自責の念に駆られたり、ってことも充分考えられます。
だから、自分の譲れないものがあるなら、許せないことがあるなら、止めるべきことがあるなら。なおのこと逃げてはいけないのかな、と思います。
おわりに
僕の好きな小説に、こんな言葉があります。
でたらめでもいいから、自分の考えを信じて対決していけば、そうすりゃ、世界が変わる
もちろん、怖いです。人に「それは違うよ」って言うのは。自分が正しいと信じて何かを言うのは。嫌われたり、間違っていたりするかもしれません。
でも、何かを変えたいと思うのなら。このままではいけないと思うのなら。きっと、勇気を奮い立たせ、自分を信じて立ち向かうしかないのでしょう。そうすれば、世界までは変えられなくても、目の前の現実くらいは変えられるんではないでしょうか。
例えそれが間違っていても、考えるきっかけにはなります。であれば、立ち向かおうとしたことは決して無駄ではないでしょう。
熱い自分語りになってしまった気もしますが、こんなところですかね。今回はこれから自分がこうなりたい、という自戒の意味も込めた記事になりました。
ちなみに社会人になるという現実とは未だに向き合えていません。現場からは以上です。